小児がんに挑む
ここで言う小児がんとは「小児悪性固形腫瘍」です。つまり、白血病などの血液のがんではなく、お腹の中や胸の中でかたまりを作る固形がんです。僕が小児外科医になった理由は、神経芽腫を治したかったから、ただその一点のみです。普通、小児がんの治療は、化学療法を小児科医が行い、小児外科医は手術のみを行うのが標準的なスタイルですが、千葉大学では小児外科医が入院から退院まで、すべての治療を担当するシステムになっているのです。もし、僕が千葉大学の医者でなければ、外科医ではなくきっと小児科医になっていたでしょう。
小児がんは70%が治る時代になった、という明るい面を強調したとらえ方をされることもあります。それは事実、その通りです。しかし、神経芽腫の80%以上は1歳以上で発見され、1歳以上の神経芽腫の80%以上は、全身に転移を伴う病期4の状態です。残念ながら1歳以上病期4のお子さんの生存の確率は、僕が医者になってからほとんど変わりがなく30%程度です。
また、ウイルムス腫瘍と並んで予後の良い疾患として語られる肝芽腫も、病期4になるとその予後は、30%程度です。横紋筋肉腫も胞巣型の予後には改善が見られていません。
長期生存者の子ども、そして大人になった子たちはみんな今、ハッピーな生活をしているのでしょうか?治療による後障害、晩期障害に苦しんでいる人もいます。
すこし、負の部分を強調しすぎたかもしれませんが、小児がんに対しては色々な意味でまだまだ挑まなければいけないのです。僕が歩んできた一小児外科医の挑戦の記録と、これからやろうとしていることをここで書いてみたいと思います。まず、はじめに僕の決意として、これからしたいこと、しなければいけないこと、です。
大学を辞めるにあたって 最大の葛藤は、がんの子どもたちとの関わりあいでした。
それは金寿司さんで始まった。 あんた、がん遺伝子の研究しねえか?
僕の治療経験 これだけのご家族とお付き合いしました。
なっちゃんと過ごした時間 どの子もみんな忘れられません。でも・・・
日本小児肝がんスタディーグループ 文字通り、心血注いで働かせていただきました。
大学時代最後の論文 やはり、肝芽腫と肝移植の論文でした。