僕の治療経験をご紹介します。これだけたくさんのご家族とお付き合いしました。
僕が千葉大学小児外科に入った1987年から5月から、2006年3月に退職するまでの19年間、以下の表のような症例を経験しました。3年間の出張のため千葉大を離れていた期間もありますが、大学に戻ったあとのお付き合いも含めると、203ご家族とお付き合いをさせていただきました。特に1998年からは、ほぼすべての患者さんの入院から退院までのご説明を僕が主治医として担当させていただきました。その数は、約70ご家族です。日本の小児がん医療には多くの問題点がありますが、そのうちの1つが、一人の医者の経験する症例数の少なさです。全国どこでも小児がんの治療を受けられる体制が必要ですが、ある程度の難治症例はその地方のセンター病院に患者さんを送ってハイレベルな治療を行うことも必要でしょう。
神経芽腫 | 133例 |
ウイルムス腫瘍 | 17例 |
肝芽腫 | 18例 |
横紋筋肉腫 | 13例 |
悪性奇形腫 | 11例 |
その他の悪性腫瘍 | 11例 |
計 | 203例 |
僕が千葉大学時代に、できなかったこと、それはやはり治療成績を満足できるレベルに引き上げることができなかったことです。もう一点は、千葉大学小児外科の中には自分の後継者を作ることはできましたが、日本全体のレベルで見た場合、自分の経験や学んだことをもっとたくさん、若手に伝えるべきではなかったかという反省です。国レベルの教育システムの重要性になぜもっと早く気づかなかったのかという悔いが残っています。
では、千葉大時代にできたこと、それは、患者ご家族とのお話しです。「説明と同意」とかいった、そういう義務のレベルの話ではありません。魂と魂が触れ合うような深いレベルのお話し合いがご家族とできたと思っています。これは僕の人生の財産です。人間としての根が深くなったと思っています。
最後まで解決できなかったこと、それは「死の臨床」です。自分は医者としてご家族と関わればいいのか、宗教家として関わればいいのか、カウンセラーとして関わればいいのか、よく分かりませんでした。最後にお付き合いしたご家族とは、考えるのがもう面倒になって「人間」として付き合いました。満足していただいていると僕は信じています。あまり本質的な話しではないかもしれませんが、僕が看取ったお子さんは、ほとんど全員に「解剖」のお許しをいただいています。あるママの話しによれば、自分の子は、僕たち小児外科医と一緒に戦ったチームの一員なのだそうです。したがって、当然、解剖も受け入れるのだそうです。泣けます。
僕が学んだこと、、、それは子どもたちが教えてくれました。彼ら彼女らは、この世を照らす光です。神様がつかわした「ガイド」なのです。僕は子どもたちが照らす光をたよりに19年間、歩んできました。開業医となった今、これから歩むべき道を教えてくれるのも、彼ら彼女らです。ですから僕は、無理に道を探そうとは思いません。道は実はすでに決まっているのです。
最後の最後まで僕を応援してくれた子、僕に生き方を教えてくれた子を紹介します。
りかちゃんです。享年8歳です。この子は未来永劫、生きています。