院長の素顔〜裏の履歴書〜
出生から幼児期まで
東京都足立区伊興町の自宅で助産婦(お産婆)さんにとりあげられました。大きな子だったそうです。1961年12月のことです。
とにかくよく泣く子で、母親以外にはまったくなじまず、誰からも好かれない子だったそうです。父が撮影した8mmカメラ(知ってます?昔はビデオなんて無かったんです。テープの幅が8mm。映画は35mmなんですよ)では、いつも泣いて鼻水とよだれを垂らしたまったく可愛くない子の姿が記録されています。当時の足立区はまったくのど田舎で、畑、田んぼ、池、森があり、自然の中で育ちました。子ども心に「早くしぶいおじさんになりたい」となぜか思っていました。
幼稚園から小学校
伊興幼稚園でした。漢字は分かりませんが、僕の記憶では「しんみち」先生が担任でした。幼稚園は大っ嫌いで、毎朝、母親に抱きついてバスに乗るのを拒みました。幼稚園の唯一の思い出は、、工作の時間にはさみを使い、これを先生に返すときにはさみを差し出したら、先生に手首をつかまれました。そして先生は僕の手を高く持ち上げて「みなさーん、はさみの返し方はこれではいけませんよねー!ちゃんと、はさみをひっくり返して持つところを相手に渡さないと駄目ですよー!」と言ったのです。非常に深く傷つきました。暗い幼稚園生でした。伊興小学校に行っても暗かったです。学校は大っ嫌いでした。風邪をひいて休むときは本当にうれしかったです。4年生くらいのときから少し勉強ができるようになり、授業でも手を上げるようになりました。4年生の1年間で偕成社のアルセーヌ・ルパン全集(20冊くらい?)を読みました。5年生からなぜか利発な子に変貌。この1年間で偕成社の江戸川乱歩の怪人20面相全集(40冊くらい?)を読みました。6年生でクラスのリーダーに。この1年で、創元推理文庫を読みまくりました。ヴァン・ダイン、ディクスン・カー、E・Sガードナーが好きでした。でも勉強はクラスで3番目でした。上位の2人は、最終的に東大から朝日新聞、慶応大学から医者になりました。ちなみに僕は塾に行ったことはありません。習字をならっていて、これは全国的にも相当うまかったようです。将来の夢はペリー・メイスンに憧れて弁護士になることでした。
中学時代
足立第十四中という、しょうもない名前の中学でした。マンモス中学で確か1年生のころは15クラスまでありました(その後、分校ができて11クラスへ)。入学式で「誓いの言葉」を務めましたが、緊張のあまり上手に喋れなかったことを今でも憶えています。今の自分のキャラからは考えられません。1年生のころはボーっとしてました。2年生のころから勉強も読書もかつての勢いを取り戻しました。3年生のころには学年全体のリーダーでした。塾には行かず、受験勉強を1分もせず、高校受験をしました。このころ仲の良かった藤原君は現在、毎日新聞の国際派記者、岩崎君はオーロラが見たいと言ってアラスカの領事館で働いています。卒業式では答辞を務めました。
白鴎高校時代
当時の東京は群制度でした。足立区は第五学区(足立、荒川、中央、台東)に属しており、52群(白鴎高校と上野高校)を受験しました。一応、52群が最高レベルでした。で、合格して白鴎高校に自動的に振り分けられました。この高校は現在、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を採用するウルトラ右翼高校に成り下がりました。(その後、採用をやめたのでしょうか?)自分の人生を否定さたようで、本当に恥ずかしいです。したがって、同窓会会費などの支払いは一切、拒否です。高校時代は文学を読みまくりました。「近代文学鑑賞クラブ」に入っていました。書き始めるときりがありませんが、本当にたくさんの文学に触れました。文学者になることを夢見ましたが、三島由紀夫の「金閣寺」をめぐり議論になった時、一年年下の後輩が、僕より見事な解釈をしました。その時、ああ、俺はこの世界ではナンバーワンにはなれないと思い、文学部進学を断念しました。哲学、心理学にも興味を持ち、臨床心理士になりたいと思いましたが、臨床心理士の「上」には精神科医が存在することを知りました。よし、精神科医になろうと医学部に行くことにしました。白鴎高校は「かつての名門」で、僕の時代では東大に進学できるのはわずか2−3人(今はもっと少ない)。高校三年の夏だけちょっと勉強して筑波大学医学専門学群を受験しました。はっきり言いますが、面接で落とされました。集団面接で市井三郎先生の「歴史の進歩とは何か」を取り上げたのが反発を買ったようです。
駿台予備校時代
よく勉強しました。というか、勉強以外、何もしませんでした。理科2群という校舎でした。これは医学部コースではなかったのですが、お茶の水にあり、駅から近いので選択しました。お茶の水の魅力はもちろん、本屋街です。1年間の模擬試験で千葉大医学部が合格圏内に入ったことは一度もありませんでした。しかし、1年かけてこういう勉強をすれば千葉大に合格するという自分なりの指標があったので、自信がありました。で、実際、合格しました。理科2群からは3名が千葉大医学部に合格(普通は、医学部コースの理科3群から合格する)したと聞きましたが、そのもう一人が、高校の同級生の大曽根君です。彼は現在、君津中央病院の新生児科の部長です。
大学時代
とにかく勉強をしなかった。ラグビーと酒と麻雀の日々です。でも、当時それが普通の大学生の姿だったのです。ただし、臨床実習だけは真剣にやり、患者さんと深く接しました。自分の力で進学して自分の力で医師国家試験に合格しました。今の大学生が悪い意味で「子ども」に見えます。お酒を飲むホームグランドは富士見町の五味鳥です。下宿で一人、することがないと五味鳥に行きます。そうすると誰かが必ず飲んでました。小児外科の幸地先生はここでバイトをしていました。今でも時々行きます。大学の6年間は楽しい思い出しかありません。大曽根君とも一緒にラグビーをしました。ゆざ耳鼻咽喉科医院の遊座君も戦友です。当時からとてもクレバーでした。小児外科を志した理由は「小児がんに挑む」に書いたとおりです。え?精神科医はどうしたって?あ、あれは、医学を勉強しているうちに精神科は医学でないと思うようになったため辞めました。もちろん、これは偏見で、僕の分子ウイルス学時代の弟(おとうと)弟子の清水栄司先生は現在、基礎医学の教授になり心を物質で解明しようとしています。
研修医時代
とにかくひたすら働きました。「今の若い者は、、、」式の言い方は嫌いですが、現在の研修医とは比べられないくらいレベルが違います。余りにも過酷だったため、その反動でその後、後輩に甘くなった部分があることは否めません。経皮酸素モニターの無い時代ですから、本当にベッドサイドでじっと赤ちゃんを見ていました。相棒の我妻先生(現在、あづま医院院長)と交代で2ヶ月、病院に泊まったりしましたが、それをねぎらう先輩は誰もおらず当たり前の光景でした。また、小児がんの子たちにIVH(中心静脈カテーテル)を使用していなかったため、毎日、朝から晩まで点滴を刺していました。採血と合わせると毎日、10回くらいは針を刺していました。この時代の思い出は「寝ないこと」と「針を刺す」ことです。とにかく上の先生たちの指導は厳しく、手術室は道場、カンファランスの場は修練場といった感じでした。もろ体育会系の組織で教授は絶対君主でした。僕はそれがまた好きでした。
大学院時代
第一微生物学教室(現、分子ウイルス学教室)でがん遺伝子の研究をしました。当初は2年の約束で行きましたが、僕のわがままが通り3年間、行かせていただきました。先輩の新保先生や吉野先生が後押ししてくれました。今でも本当に感謝しています。この3年間はこれまでの僕の人生の中でもキラキラと黄金のように輝いています。恩師・清水名誉教授や白澤現教授のことを書き出したら止まらなくなります。ちなみに現在、歯科口腔外科教授の丹沢先生も僕と一緒に研究した仲です。弟弟子には仲野先生(市立青葉病院耳鼻科)や圷先生(千葉東病院外科)、清水栄司先生がいます。この黄金の3年間はブログで少しずつ書いていきたいと思っています。
松戸市立病院時代
川村先生と栗山先生に手術を教えていただきました。非常にたくさんの経験を積み、小児外科医として大きく成長しました。この2人からは大きな影響を受けました。ちなみに、、、書いて良いのかな?本当に3人でよくお酒を飲みました!一つ一つの症例について、喧嘩になるほど熱く真剣に議論を交わしました。3人の中では僕が一番大人だったような気がします!
沼津市立病院時代
勤務開始の前日、全フロアーに挨拶回りをしました。オペ室にも行きました。そこにいたリーダー看護婦に挨拶をしたところ、「先生、マスクを取って下さい。顔を憶えたいので」と言われました。「自信ありませんので、、、」と高倉健ふうにつまらない冗談を言って立ち去りました。ここでは当初、小児病棟の看護婦たちとまったくうまく行きませんでした。彼女たち、保守的なんですね。僕の注文をまったく聞いてくれませんでした。さんざんバトルしましたが、僕の「実力」が分かり始めてから、すべて僕の指示に従ってくれました。こういう書き方をすると非常に傲慢に聞こえるかもしれませんが、一人医長で就任する以上、すべての子どもの命の責任は僕が負うのです。年が明けて、さきに書いた手術室の看護婦をデートに誘いました。理由は、僕がこれまで見た看護婦の中で彼女はずば抜けて最も優秀だったからです。初回のデートで手も握る前に結婚を決めました。阪神大震災、地下鉄サリン事件がこの直後に起きました。
千葉県子ども病院時代
前年の一人医長とは打って変わって、真家先生、江東先生という二人のボスがいました。1年間を通して自分の思った医療は一切できず、めちゃめちゃストレスを感じました。手術はたくさん経験し、小児外科医としては大きく成長したと思いますが、研修医が行うような疾患ですら自分で入院を決めることが許されませんでした。ただ、後輩の菱木先生とは非常に気が合ったので、振り返ってみれば楽しい一年でした。もちろん、真家先生、江東先生、今でも大の仲良しです。システムが僕に合わなかったということです。小児科を含め、各科の先生たちと非常に親しくなりました。しかし、子ども病院創成期の第一世代の部長先生たちも徐々に子ども病院を去りつつあります。本当に寂しいことです。
そして大学病院へ
新婚当初、みつわ台の2丁目のアパートに住みました。なんと、今のクリニックのすぐ近くで、なぜか番地が今のクリニックとまったく同じなんです。大学に帰ってからは、高橋前教授の定年退官、大沼教授の就任、自分の助手採用、そして講師昇進。臨床に、研究に、教育に、そして管理・運営に日に日に忙しくなって行きました。日本小児肝がんスタディグループのコーディネーターを務めたこと、大沼教授が学会理事長をなされた2年間に理事長付き庶務委員(会社で言う社長秘書室長)を務めたことが、僕の人間の幅を大きく広げました。これによって日本中に人脈ができました。この間、様々なエピソードがありますので、おいおいブログで紹介していきましょう!